太閤立志伝Ⅴ 新武将に札を取得させるイベント
このイベントは一々ツールを使って新武将の所持カードを設定するのが面倒だったため、
スクリプト上で指定したカードを、ゲーム開始時に自動的に配るようにしたものだ。
それから、ついでに勲功値も弄れる様にしてある。
作ったのはもう大分前になるので少々不安だが、
下に貼ってあるソースコードを丸々テキストエディタにコピペすれば、恐らく動くと思われる。
取得札や勲功値は結構簡単に弄れるので、試してみてはどうだろう?
面倒だから書いていないが、ここから能力値や技能レベルを変える事も可能だぞ??
太閤立志伝5イベントソース // 【※※ 千階堂ツール必須 ※※】 // 【イベント概要】 // ▼ このイベントで出来ること // ・新規にゲームを開始した際にイベント発生。 // ・新武将に任意の札を習得させる。 // ・新武将の勲功を増加させる。 // ・取得札、増加勲功はイベントソース上で自由に指定可能 // ▼ 注意事項 // ・新武将の特定には「野心」を参照するため、値の重複には注意。 // 野心が同値の武将がいる場合は、正しく反映されない可能性があるので、調査項目を増やすか値の変更が必要。 // ・その他・名所札は所持フラグが主人公武将にしか設定されていないため、 // 該当武将が主人公の場合のみ取得するようにしてある。 // ▼ 今後の課題 // ・コードが冗長になるため、記述していないが、 // 武将の能力値や技能レベルを設定することも可能なので、 // 気が向けばやっても良いだろう。 // ▼書き換えが可能な箇所 (★でマークしてある) // 野心(対象指定用)、勲功値、代入カード名(又はカード所持フラグ) チャプター:{ イベント:新武将の設定{ 属性:一度だけ 発生契機:ゲームスタート時 発生条件:{ }//発生条件閉じる スクリプト:{ //ひとりごと:[[新武将への札配布および勲功の増加を行います]] 代入a:(0) //ループ1カウンタの初期化 ループ:{//Loop1(野心値による探索対象の決定) 代入a:(a)+(1) //Loop1カウンタ加算 代入b:(800) //ループ2カウンタの初期化(新武将のみを探索) //ひとりごと:[[ループ<a>周目です]] ループ:{ //Loop2(Loop1で決定した対象を新武将から検索 代入人物A:(0)+(b) //型チェック回避 調査:(人物A.野心)==(a) 分岐:(真){ //分岐A //////////////////////////////////////////////////////////////////// 凡例 // 武将名:〇〇〇〇 ←メモ用。ここに対象となる武将名を記載しておくと、取り違えを防げる 調査:(a)==(1) // ★対象となる新武将の野心を指定する(この場合、野心1の武将の設定を行う) 分岐:(真){ ///// ★勲功 ///// 不要な行はでコメントアウトするか、消す 更新:(人物::人物A.武士勲功)(3000) 更新:(人物::人物A.忍者勲功)(3000) 更新:(人物::人物A.海賊勲功)(3000) 更新:(人物::人物A.商人勲功)(3000) ///// ★称号札 ///// 代入カードA:(カード::名奉行) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] 代入カードA:(カード::悪逆非道) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] ///// ★合戦札 ///// 代入カードA:(カード::千里眼の術) // この行でカード名を指定 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] // この行でカードを付与。2行でワンセットなことに注意 代入カードA:(カード::特技破りの術) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] 代入カードA:(カード::鬼謀) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] 代入カードA:(カード::幻惑の術) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] 代入カードA:(カード::威圧) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] ///// ★秘技札 ///// 代入カードA:(カード::心眼) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] 代入カードA:(カード::無刀取り) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] 代入カードA:(カード::転) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] 代入カードA:(カード::罵り) 文字列設定:(Empty)[[@千@更新@人物::人物A。所持カード@カードA@1]] ///// ★その他・名所札 ///// ※ 武将が主人公の場合のみ付与される AND調査: { 調査:(人物::主人公.野心)==(a) 調査:(人物::主人公.人物番号)>=(800) } 分岐:(真){ 更新:(カード::松島.所持フラグ)(持っている) // ここのカード名を変更 更新:(カード::無の心.所持フラグ)(持っている) } } //////////////////////////////////////////////////////////////////// 凡例〆 // さらに他の新武将の設定を行いたい場合は、凡例をここにコピペして設定内容を記述する }//分岐Aの終わり 代入b:(b)+(1) //Loop2カウンタ加算 調査:(b)==(841) //ループ脱出 ブロック脱出:(真) }//Loop2の終わり 調査:(a)==(100) //ループ脱出 ブロック脱出:(真) }//Loop1の終わり //ひとりごと:[[ループ終了しました]] }//スクリプトの終わり }//イベントの終わり }//チャプター〆
ぼくとフレンズ
■はじめに
毎度記事の書き出しでは投稿間隔の長さを嘆いているが、この度はなんと前回から一年以上が経過している。前回と前々回の間は約100日だから、丁度季刊から年刊へと変わったようなものだ。もしかしたら、次の記事の書き出しは隔年刊となった事への嘆きから始まるかもしれない。
隔年と言えば、先日アニメ『けものフレンズ2』が最終回を迎えた。前作の『けものフレンズ』一期から丁度2年が経過している。私も最終話まで毎週視聴したが、その出来については「落胆した」の一言だ。詳細については散々各所で批判されているので一々触れないが、大まかに言うと以下の3点が不満だった。
- 脚本や演出が幼稚かつ稚拙なこと
- 不要なシーンに尺を割く反面、回収されない伏線が余りに多いこと
- 動物の動きや特性がシナリオやキャラクターの動きに活かされていないこと
もっとも批判の中には内容に賛同しかねるものも多い。例えば「韓国のホテルやキムチ鍋が作中に登場した」等のネトウヨめいたものや、Twitter等での二期スタッフへの人格攻撃が挙げられる。私も制作スタッフの仕事ぶりについては思うところもあるが、こうした「怒るための材料を探す人々」には眉を顰めざるをえない。
前置きはさて置いて、私がこの記事を書こうと考えたのは、二期の批判のためではない。どちらかと言えば、一期を見つめ直そうという意図がある。例えば「一期の優しい世界を破壊した」という批判があるが、本当に一期の世界は優しかっただろうか? 私にはその「優しい世界」が極めて不安定なバランスの上に成り立つ「不穏な世界」に見えていた。
作品から感じる不穏さの原因について、私は以下の3つの要因からなると考える。
- セルリアン (パークを脅かす謎の異形)
- 廃墟と人間の痕跡(廃テーマパーク / 忽然と消えた人間)
- ヒトとけもの (現実の人間と動物の関係)
上2つについては散々言い尽くされている事なので、今回は最後の「ヒトとけもの」に重点を置いて考えてみたい。 以下考察が続くが、『けものフレンズ』一期のネタバレがある程度含まれることが予想される。ご容赦願いたい。
■「けもの」の危険性
そもそも人間と動物は根本的に相容れない存在だと私は思う。人間は動物に危害を加え、領域を侵し、あるいは飼育・使役・研究・展示して来た。そして人間が原因で絶滅したり、あるいはその危機に瀕している者も少なくない。動物の側もまた人間に危害を加え、その領域を侵そうとする者がいる。
作中ではそうした歴史が明示される事はないが、大抵の視聴者は、人間と動物との関係が、必ずしも良好でなかったことを知った上で作品を見ている。また「かばんちゃん」が「ヒト」である事は7話後半で初めて明示されるが、視聴者は最初から彼女が「ヒト」であることに薄々勘付いてもいる。
1話冒頭の「かばんちゃん」の台詞「食べないでください!」には、動物が人間に危害を加えうる存在だという事が示されている。サーバルはあくまで「狩りごっこ」をしている為、害意は全く無いわけだが、「肉食獣に組み伏せられた人間の子供」という構図は捕食を連想させる。丸腰の「ヒト」は「けもの」に勝てない。それでも自然の中で個体として生きていかねばならない事が、物語の始めに示される。
作中には絶滅動物のフレンズも登場する。その多くは目にハイライトがない事により、デザイン面で他の動物とは区別されている。そうした動物の中には、二期のリョコウバトの様に人間によって絶滅させられたものも存在する。人間と動物の歴史は必ずしも友好的なものではない。もしもフレンズの中に動物時代の記憶を持つものがいたなら、或いは人と動物が対立する歴史を知るものが現れたなら、ヒトである「かばんちゃん」は無事で居られるのだろうか。
そうした緊張感は「かばんちゃん」がヒトである可能性をハシビロコウに指摘される6話ラスト~7話冒頭で最も高まる。この段階ではヒトに対してフレンズがどの様な感情を抱いているか評価が明確でない。もしかしたらヒトであることが露呈した結果、危害を加えられたり、排斥を受けるのではないか?との不安がよぎる。
(実際には危害が加えられる事はない。フレンズはヒトに対して好奇心を抱きこそすれ、害意を持つことはない)
最終話12話において、フレンズ達は「野生解放」を行い、「群れ」として異物であるセルリアンを排除している。人間を異物と判断したなら、容赦なく排除するだけの力をフレンズ達は持っている。彼女達は「そうしない」だけなのだ。
■「ヒト」の危険性
それでは「ヒト」は弱く無害な存在なのだろうか? 答えは否だ。
「かばんちゃん」は旅の間に様々なフレンズと出会い、そこで発生する問題を「ヒトの知恵」と「フレンズの特性」を用いて解決してゆく。
- 2話ではフレンズと共に川に橋を架ける
- 3話ではフレンズに歌い方を教えたり、店の宣伝をしたりする
- 5話ではフレンズが家を建てるのを手伝う
- 6話ではフレンズを率いて縄張り争いを解決する
- 7話では火を用いてフレンズに料理を作る
フレンズとは動物がヒト化したものだが、元の動物の特性を色濃く受け継いでいる。先述の様に身体能力は人間を凌駕する反面、人間ならすんなり出来る事が、行えない/理解できない場合もある。「かばんちゃん」はそうしたフレンズの特性を見極め、的確に導くことで問題を解決する。上に挙げた中では特に2話、5話、6話で顕著だ。
6話で「かばんちゃん」はヘラジカ側の軍師として陽動作戦を展開し、連戦連敗だったヘラジカを敵大将・ライオンとの一騎討ちまで導く。『けものフレンズ』一期のストーリーは人類史とリンクしている、という話があるが、ここでは「戦争」がテーマとなっている。「ヒトの知恵」は使い方次第ではフレンズを組織化し、効率的に使役する事が出来るのだ。
7話で「かばんちゃん」はジャパリ図書館に到達する。そしてアフリカオオコノハズクの博士らに求められ、火を用いて料理を作る。博士らは「かばんちゃん」の作ったカレーに夢中になり、やがて料理文化は徐々にフレンズの暮らしの中に伝播してゆく事となる。
火はギリシャ神話のプロメテウスの逸話に代表されるように、人類の知恵と技術の象徴だ。闇を照らし、暖を取り、触れたものの性質を変容させる。料理を作る事も出来れば、金属を加工して武器を作ることも出来る。火を使う「かばんちゃん」をフレンズ達は「何か怖い…」と遠巻きに見守るが、フレンズ達が感じていた畏怖の念は、「火」のみならず「未知の技術を使うヒト」にも向けられていたのではあるまいか。
物語の最後に「かばんちゃん」は海を越えて旅立つこととなる。ここからは完全に私の妄想となるが、もし仮に彼女がそのまま島に残り続けたなら何が起こっただろう? 私は以下の理由により、本人が望むと望まざるとに関わらず「かばんちゃん」の権威化が進んだのではないかと考える。
- 確かな戦術眼を持っており、対セルリアン戦の中心的存在となりうる
- 知恵と技術によりフレンズの抱える問題を解決したり、新たな文化を産み出せる
- 特に火を使う作業は「かばんちゃん」の専売特許(火が平気なヒグマは除く)
島の抱える問題が集中して「かばんちゃん」のタスクが極大化した結果、「かばんちゃん」はフレンズを組織化し、指示を出す必要に迫られるのではないか。それは取りも直さず「ヒトによるフレンズの支配」の始まりに他ならない。
■まとめ
長々と書いてきた様に、『けものフレンズ』一期の世界は不穏さに満ちていると私は考える。フレンズ達は互いの長所を肯定し、短所もまた個性として受容する。「ヒト」である「かばんちゃん」もまた様々なフレンズ達と接する中で、パークに受け入れられてゆく。
だがその「優しい世界」は、登場人物の誰もが害意を抱かないからこそ成り立っている。「けもの」は「ヒト」を排斥するだけの力を持ち、「ヒト」は「けもの」を支配するだけの知恵を持っている。一歩間違えれば、そこには現実の歴史が辿ってきた人間と動物の対立が生まれうると私は考える。
以前、Twitter上でこんな話をした。「人権は侵害されて初めて存在に気付くものだ」と。陽光に満ちた世界では、星々の光に気付くことは出来ない。不穏と謎が影を落とす世界だからこそ、フレンズのいる優しい風景が輝いて見えるのだと私は思う。
過ぎ去りし日々を求めて
ともすれば、このブログの存在を忘れそうになる。この記事を書いているのも、約100日ぶりにブログの存在に気付いたからだ。毎日開くTwitterのプロフィール欄にブログへのリンクが存在するというのに、影の薄いことだ。
たまには何か書こうかと思うが、平板で無感動な日常の中に記事のネタを求めるのはいささか酷な話だ。『信長の野望・大志』の記事については、この100日間の間にすっかり熱意が冷めてしまい、あまり書く気も起こらない。10年前であれば寝食を忘れて取り組んだことも、今はそうできない。変わったのは世のゲームか自分か、あるいは両方か。などと老人の繰り言めいたことを呟いて暮らしている。
そういえば、年が変わった頃からAmazonPrimeVideoの利用が増えた。新作アニメが自由な時間帯に視聴可能で重宝している。ゲームという双方向メディアより、受動的な動画視聴の方が性に合う様になったことは、熱量減少の証左かもしれない。
また、作品の好みも変化した。例えば以前の自分であれば絶対に観なかっただろうと感じるのが『宇宙よりも遠い場所』だ。略称『よりもい』。要約すれば「十代半ばの少女4人組が南極を目指す青春劇」といった内容だ。作品内の主人公達は各々目的意識を持ち、仲間との友情を育みながら南極を目指す。陳腐な表現だが、その姿はキラキラと眩い光を放つ。私はそんな輝かしい青春を描いた作品が苦手だった。いや「苦手」というのは生易しい表現で「大嫌いだった」というのが正しい。
僕の青春が鬱屈と他者への拒絶に満ちた日々だったからだ。見上げれば、いつも暗雲垂れ込める黒い空があった。陽光の下で生きる人々を、僕は鼻で笑いながら暮らしていた。だが、そうした生活が残したのは「人並みの青春を送れなかった」という喪失感と劣等感だけだった。
しかし、いざ『よりもい』を視聴するとこれが実に面白い。光を放つ彼女らの姿を見ても嫉妬や喪失感を感じない。あっという間に最新話まで追い付き、今となっては毎週の楽しみとなっている。特に5話で描かれたキマリとめぐっちゃんの関係は、過去・現在の自分の姿と重なる部分があり、色々と考えさせられた。その一見冷笑的な態度もそうだし、「依存されている様に見える側が、実は相手に依存している」こともそうだ。まあ今回は本作の詳しい内容に触れるつもりはないので話を戻す。
なぜ私はこの作品が受け入れられたのだろうか。それは自分のなかで青春が「失ったもの」から「もう得られないもの」に変化したのだと私は考える。時間の経過と熱量の喪失が「喪失した現実」を「手の届かないファンタジー」に変えたのだ。若い頃は偏食気味だった私も、年齢とともに様々な作品を受け入れられる様になって来た気がする。そんな変化が妙に嬉しかった事だけはブログに残そうと、今夜は珍しく記事を書いた。文章を綴る気力も尽きてきたし、年を取るのも悪いことばかりではない、という投げっぱなしな結びとともに筆を置こうと思う。
一周年および「信長の野望・大志」
はてなブログからメールが届いていたので開いてみたところ、どうやら前回の記事を投稿してから今日で丁度1年目らしい。あまりにブログを更新しないのも問題だと考え、うだうだと映画の感想を書き連ねる事でお茶を濁してから、もうそんなに経つのかと愕然とした。
去年から現在を振り返ると、以前ブログを書いた頃は発狂と無縁の生活を送っていたものの、現在は毎日の様に発狂しており人間の生活も変われば変わるものだと思う。むしろ発狂が日常化しつつあるという、歓迎すべからざる自体に直面している。それについては衆人の目に晒すつもりはないので、心の中に秘めておこう。
ブログに書けるような近頃の出来事と言えば、『信長の野望・大志』を購入した事くらいだろうか。世間での評判は知らぬが、個人的にはそこそこ楽しめている。そんな訳で今回の記事では、本作に対して抱いた私の感想をうだうだと書き連ねてゆこうと思う。分量が多いので何度かに分けて書くことになるかもしれない。
プレイ内容としては、大友宗麟を用いて一度ゲームクリアをした程度だ。よってまだまだ仕様を理解していない部分も多いと思うし、一杯やりながら書いていることもあり粗の多いレヴューとなっている事が予想される。
【良かった点】
・内政、軍事、外交の密接な関連性
本作には農兵と足軽という2種類の兵士が存在する。農兵は農民を徴用する事で、足軽は流民を金銭で雇用する事で増やすことができる。
農兵は農民の一部を徴用するため、数を増やす場合は兵糧収入と引き換えになる。足軽は数を増やすと金銭収支を圧迫する。よって農兵中心の編成なら母数となる農民の多さが、足軽を中心とした編成なら潤沢な金銭収入が必要となる。
本作では大名の立地や後述する「志」により、農業や商業の得意不得意が存在する。それにより大名の兵士の内訳も変化する。例えば領内に貿易港を増やしやすい大友宗麟なら足軽主体、農民・農兵に特化した志の長宗我部元親なら農兵主体の編成といった具合だ。
そして、農兵・足軽達の要となるのが「流民」の存在だ。彼らは先述の通り足軽として雇用できるだけでなく、開墾コマンドによって田畑を拓き農民となる存在でもある。農民は農兵の母体となるので、どちらの兵士を雇うにしろ流民の存在はないがしろに出来ない。また、互いに流民を足軽にしすぎて開墾をする人間がいないor開墾しすぎて足軽が雇えないという相反にも頭を悩ませることとなるだろう。
他にも流民を招くには民忠の向上が重要であり、それには十分な兵糧収入が必要であったり、鉄砲・騎馬の数を揃えるには馬産地や鉄砲鍛冶を擁する商圏への進出が有効であったりと様々な要素が複雑に絡み合っているのだが、書くのが面倒になったので残りは次回に譲りたいと思う。
しかし果たして次回以降は続くのだろうか。前作『創造』の時は◯◯編と銘打った結果、たった一度の投稿で終わっている訳だがどういう事か。兎にも角にも今回はこれでおしまい。本作の不満点や他の評価点については次回(あるなら)に譲りたい。
映画をいくつか観た
子供の頃から、課題と名のつくものはギリギリまで手を付けない性格だった。この間も映画鑑賞券の使用期限が数日に迫っていたため、あわてて数本観た。中には特段観たくない映画もあったが、券が勿体無いので無理矢理に観た。どうやら昔の性質は今の今まで尾を引いているらしい。
まず『この世界の片隅に』を観た。
面白い映画だった。主役の能年玲奈の声は、非常によく合っていた。くわしい内容は色んな人が語っているし、一々言及しない。敢えて感想を書くなら、戦時中という非日常のなかの日常描写が良かった。主人公が非常に健気なわけでもなく、何か大事件を解決する訳でもない。ただ勝手に戦争が起き、原爆が落ち、玉音放送が流れる。そういった出来事に対して、主人公は何の介入も出来ない。物資が乏しいながらに食事に工夫を凝らしてみたり、風景のスケッチを憲兵に咎められたりしながら、日々を淡々と過ごしてゆくのである。ある事件が起こるまでは。
観終わって、震災のあった頃、なぜか状況を楽しんで暮らしていた自分を思い出した。停電の夜は星がよく見えたし、地上では真っ暗な街に渋滞の車のライトだけがくっきりと浮かび上がって綺麗だった。闇の中では色んな人が必死に働いていただろうに、景色が美しいとか、来週仕事がなくなって嬉しいとか、そういう事を考えながら過ごしていた。あの日々を写真かなにかに残しておければ良かったなあ、と思うが、しかし私には絵も写真も心得が無いのだった。
しかし、上の話は映画と何も関係が無いな。映画を引き合いに出して、ただ自分語りをしたかっただけではないかな?(八戸のぶながの自己批判)
それから券が使い切れず、仕方なく『君の名は。』を観た。
実はAbemaTVの新海誠特集でいくつか作品を観て、苦手感を抱いていたのであまり気が進まなかった。最高の映画とは思わないが、嫌いな映画ではなかった。背景も綺麗だったし。
この映画を観終わって、またもや震災の事を考えてしまった。彗星の落下によってなくなった町。その水没した瓦礫や、立入禁止のバリケード、復興庁の名が入ったビニールテープを見れば、どうしても連想してしまうのだ。「もしもあの災害の瞬間に介入できたなら?」というifをあの映画は描いていたのではないか。私は東北脳なのでそう考えてしまった。
『シン・ゴジラ』を観終わったときもそうだが、今年ヒットした邦画を見ると、どれも私は震災の事を想起してしまう。海から襲ってくる怪獣、消えてしまった町、戦後の焼け野原、そのどれを見てもだ。これは作品に対して自己の中の災害像を投影している部分もあるかも知れない。『この世界~』については、我が感想ながらこじつけの感もある。
ただ他方では、そういう震災の記憶を皆が消化したがっていて、その助けとなる作品を欲している部分もあるかも知れないとも感じた。(「皆が」というのは私が感じていることなので、「私が」と置き換えたほうが適切な可能性もあるが)
本当は他にも2本観たが、特に印象に残ったものだけを書いた。
また意味のない文章を書いてしまった。(八戸のぶながの自己批判)
( ,_´ゞ`)
眠れないので『信長の野望 創造PK』の感想でも書こう ~外交篇~
一応断っておくと、無印は未プレイなので無印→PKの変更点などは分からない。もしかしたら単なる無印の感想になってしまう部分もあるかも知れない。そこを了解の上読んで頂ければと思う。一つの記事に全部書いてしまうつもりだったが、経年劣化によって要点を纏める能力が低下してきたせいか、矢鱈と長文になる予感がしたので幾つかに分けている。
以下、外交についての感想である。
大勢力に対して包囲網を組んで対抗出来る連合システムは面白いと感じた。盟主になれば、連合に参加している大名の軍勢を任意に出陣させることも可能であり、信長包囲網の様な複数大名家による連携を再現出来る点は良い。実際、同名シナリオでの足利義昭プレイなどは非常に楽しめた。関ヶ原の東軍西軍などもこの連合システムによって描かれている。
ただ今作では外交が余りにも万能なカードである為、使い過ぎると難易度が大きく低下するのが問題点。今作の外交システムは相手大名への工作によって信頼度を溜め、溜まった信頼度を消費する事によって相手に要求を飲ませる形式を取っている。
問題なのは必要な信頼度さえ用意すれば、婚姻同盟だろうと援軍要請だろうと、どの様な要求でも必ず通ってしまう点だ。こちらに敵意を向けている大名家であっても、信頼度さえあれば一声掛けるだけで必ず援軍を送ってくれる。(それどころか、半年以上の不戦同盟期間までおまけについてくる)
更にこのゲームの大名は乱世に似合わぬ誠実な人々ばかりで、相手から同盟を切ってくる事は滅多に無い。無謀な援軍で戦力を浪費させられた挙句、同盟期間終了後に自勢力に吸収されてゆく様には罪悪感を禁じ得ない。
外交結果については大名同士の相性や、信頼度の溜まり具合によって交渉の成否にブレを持たせた方が面白かったのではないかと思う*1。
もう一つ不満点を挙げるとするなら従属システムだろう。今作では自勢力が大きくなれば弱小大名を従属させる事が可能なのだが、従属させた大名家のその後の処遇が問題だ。
このゲームの従属は「信頼度消費無しで出来る無期限同盟」の様なものであって、主家側のメリットが少な目である*2。従属させた後も相手は大名であり続けるし、従属相手を自勢力に吸収するコマンドは存在しない。その為、前線から離れた従属大名は領地を占有しているだけの無用の長物と化してしまう。始末するには自ら同盟を破棄して攻めこむか*3、他の大名家が滅ぼしてくれるのを待つしか無い。従属相手を吸収するコマンドがあれば良かったのだが、惜しい所である。
従属「させる」側としては使い辛い事極まりないコマンドである一方、従属「する」側からするとこれ程有用なシステムも無い。前述した様に今作の大名達は律義者ばかりなので、全方位に喧嘩をまくった挙句守りを主家に丸投げする、という様な従属先の主の胃に穴を開ける様なプレイも可能。更に自分の勢力が大きくなれば、平和的に独り立ちする事も出来るという至れり尽くせりぶりである。
案の定長くなってしまったが外交篇はこの様な感じである。
総合すると外交の万能カードぶりが目立つのだが、その万能カードを用いて性格の悪い遊び(下記に例を挙げておく)をするのは非常に楽しいし時間を忘れる作業の一つ。奥深いシステムという程でもないが、プレイヤーの脳内補完次第で十分に楽しめる。
ついでに今回は注釈を色々入れたのだが、読みやすさとしては如何なものだろうか?書いている側からすると楽が出来る機能なのだが…
( ,_´ゞ`)性格の悪い遊びの例
遠方の大国を標的にした形ばかりの連合を組む。近隣の大名はほぼ全て連合に誘うが、一家だけ大名をハブる。本当に攻めたいのはそのハブった大名である。
Speak Like the Old
( ,_´ゞ`)突如記事を書く。特段書くべきことがある訳ではない。
何故書くかと言えば、たまには記事を書いてやらないと数少ない読者どころか自分自身すらブログの存在を忘れてしまうからだ。記憶というのは蓄積されていても、それを検索する手掛かりが無ければ再生出来ない。今回も偶々他人の書いたブログを読むまでは、自分がブログを持っていた事すらすっかり忘れていたのだ。
思えば小学校以前の記憶は靄の彼方にある様なものだし、中高生時代もかなり漠然としたものしか残っていない。今はつなぎ止めている大学生活の記憶もやがて靄に包まれ彼方へ消え去ってしまうだろう。それ以降の記憶には余り楽しい思い出も無いが、それでも消えてしまうのは寂しいものだ。
せめて時の流れに抗う為に日記などを書けば良いのだろうが、私は三日坊主どころか散々悩んだ挙句始める前に投げ出してしまうような人間なのでどうしようもない。せめて物的証拠でも残そうと、映画の半券や飲んだビールのコースター等を保存し始めたが、これもいつまで続くものやら知れぬ。
そう言えばつい一昨日amazon内をぶらついていたら、『COWBOY BEBOP』のDVDボックスが安く売られているのを見つけて購入してしまった。
全話揃った上で特典映像まで付いて4,000円以下とは、非常にいい買い物をしたと我ながら思う。嬉しい誤算であったのは、このDVDは仏語版であり(勿論日本語版の音声も付いているが)フランス語の吹替や字幕を楽しめるからだ。
とは言っても私はフランス語の素養がある訳ではないので、演技のニュアンスや細かい訳語の差しかわからないのだが、それでも十分興味深く楽しめている。
フロイスの『日本史』もちびちびと読んでいる。基本食事時に少しずつ読み進めるだけなのでなかなか進まないが、こちらも興味深い本である。当時の貴人から貧民に至るまで、当時の人々の生活振りが描かれているのは当然興味深いし、純粋に外国人の日本旅行記として読んでも面白い。本能寺の変に際した洛中・安土城下の混乱ぶりなどとても面白い。
また外国人の宣教師という極めて偏った視点が描かれているのも良い。日本における神道の神や仏は彼らに取って悪魔であり、邪魔する異教徒はその手先の様に描かれている。改宗をした者には極めて寛容な反面、教えを捨てた者には非常に厳しい表現を用いるのも、読んでいて興味を惹かれる部分である。
今丁度読んでいた一節に織田信孝の最期が描かれているので、少し引用してみよう。「彼」というのが信孝の事である。
先にデウスは彼にキリシタンの教えについて大いなる喜びと光と知識を授け給い、彼自身、キリシタンになる意向をたびたび表明し、自分が征服した諸国では我らの聖なる教えが大いに弘まるように協力しようと言っていながら、少しく栄えるとデウスに背を向け、心はまったく悪に染まり、デウスに扶助を求めるどころか、それを拒否し、魔術師の吐物を求め、偶像を拝みに走ったのである。だがデウスは突如として彼との絆を断ち給い、間もなく彼は無残な死を遂げ、その記憶は人々の許から消滅してしまった。(完訳フロイス日本史4 豊臣秀吉編1 P18~19より)
少し長くなったが、彼の死についてかなり厳しい表現で糾弾している事がお分かり頂けると思う。前巻においても本能寺の変前の信孝の描写があるが、そこでの彼は華麗な軍団を率いる前途有望な若武者として描かれているのに対して、凄まじい掌返しである。(先に掌を返したのは信孝だという意見もあるが…)
たまに素に戻った宣教師の言葉が書かれているのも良い、普段は仏像への冒涜行為を賞賛している彼等が(仏像に小便をかけた人物を賞賛したりしている)、三十三間堂を訪れて展示された仏像に痛く感じ入り賞賛している様子などは少し微笑ましくも思える。
余りにも纏まりのない文章を書きすぎると辟易される(既にされている)だろうから今日はこの辺にしておく。うむ( ,_´ゞ`)