八戸のぶなが 朝まで三戦

三戦固定八戸のぶながが、日々の想いを綴っていくブログにしたい。

過ぎ去りし日々を求めて

ともすれば、このブログの存在を忘れそうになる。この記事を書いているのも、約100日ぶりにブログの存在に気付いたからだ。毎日開くTwitterのプロフィール欄にブログへのリンクが存在するというのに、影の薄いことだ。

たまには何か書こうかと思うが、平板で無感動な日常の中に記事のネタを求めるのはいささか酷な話だ。『信長の野望・大志』の記事については、この100日間の間にすっかり熱意が冷めてしまい、あまり書く気も起こらない。10年前であれば寝食を忘れて取り組んだことも、今はそうできない。変わったのは世のゲームか自分か、あるいは両方か。などと老人の繰り言めいたことを呟いて暮らしている。

 

 そういえば、年が変わった頃からAmazonPrimeVideoの利用が増えた。新作アニメが自由な時間帯に視聴可能で重宝している。ゲームという双方向メディアより、受動的な動画視聴の方が性に合う様になったことは、熱量減少の証左かもしれない。

また、作品の好みも変化した。例えば以前の自分であれば絶対に観なかっただろうと感じるのが『宇宙よりも遠い場所』だ。略称『よりもい』。要約すれば「十代半ばの少女4人組が南極を目指す青春劇」といった内容だ。作品内の主人公達は各々目的意識を持ち、仲間との友情を育みながら南極を目指す。陳腐な表現だが、その姿はキラキラと眩い光を放つ。私はそんな輝かしい青春を描いた作品が苦手だった。いや「苦手」というのは生易しい表現で「大嫌いだった」というのが正しい。

 僕の青春が鬱屈と他者への拒絶に満ちた日々だったからだ。見上げれば、いつも暗雲垂れ込める黒い空があった。陽光の下で生きる人々を、僕は鼻で笑いながら暮らしていた。だが、そうした生活が残したのは「人並みの青春を送れなかった」という喪失感と劣等感だけだった。

 しかし、いざ『よりもい』を視聴するとこれが実に面白い。光を放つ彼女らの姿を見ても嫉妬や喪失感を感じない。あっという間に最新話まで追い付き、今となっては毎週の楽しみとなっている。特に5話で描かれたキマリとめぐっちゃんの関係は、過去・現在の自分の姿と重なる部分があり、色々と考えさせられた。その一見冷笑的な態度もそうだし、「依存されている様に見える側が、実は相手に依存している」こともそうだ。まあ今回は本作の詳しい内容に触れるつもりはないので話を戻す。

 

 なぜ私はこの作品が受け入れられたのだろうか。それは自分のなかで青春が「失ったもの」から「もう得られないもの」に変化したのだと私は考える。時間の経過と熱量の喪失が「喪失した現実」を「手の届かないファンタジー」に変えたのだ。若い頃は偏食気味だった私も、年齢とともに様々な作品を受け入れられる様になって来た気がする。そんな変化が妙に嬉しかった事だけはブログに残そうと、今夜は珍しく記事を書いた。文章を綴る気力も尽きてきたし、年を取るのも悪いことばかりではない、という投げっぱなしな結びとともに筆を置こうと思う。