八戸のぶなが 朝まで三戦

三戦固定八戸のぶながが、日々の想いを綴っていくブログにしたい。

ぼくとフレンズ

■はじめに

 毎度記事の書き出しでは投稿間隔の長さを嘆いているが、この度はなんと前回から一年以上が経過している。前回と前々回の間は約100日だから、丁度季刊から年刊へと変わったようなものだ。もしかしたら、次の記事の書き出しは隔年刊となった事への嘆きから始まるかもしれない。

 

 隔年と言えば、先日アニメ『けものフレンズ2』が最終回を迎えた。前作の『けものフレンズ』一期から丁度2年が経過している。私も最終話まで毎週視聴したが、その出来については「落胆した」の一言だ。詳細については散々各所で批判されているので一々触れないが、大まかに言うと以下の3点が不満だった。

  • 脚本や演出が幼稚かつ稚拙なこと
  • 不要なシーンに尺を割く反面、回収されない伏線が余りに多いこと
  • 動物の動きや特性がシナリオやキャラクターの動きに活かされていないこと

 

 もっとも批判の中には内容に賛同しかねるものも多い。例えば「韓国のホテルやキムチ鍋が作中に登場した」等のネトウヨめいたものや、Twitter等での二期スタッフへの人格攻撃が挙げられる。私も制作スタッフの仕事ぶりについては思うところもあるが、こうした「怒るための材料を探す人々」には眉を顰めざるをえない。

 

 前置きはさて置いて、私がこの記事を書こうと考えたのは、二期の批判のためではない。どちらかと言えば、一期を見つめ直そうという意図がある。例えば「一期の優しい世界を破壊した」という批判があるが、本当に一期の世界は優しかっただろうか? 私にはその「優しい世界」が極めて不安定なバランスの上に成り立つ「不穏な世界」に見えていた。

 

作品から感じる不穏さの原因について、私は以下の3つの要因からなると考える。

  • セルリアン   (パークを脅かす謎の異形)
  • 廃墟と人間の痕跡(廃テーマパーク / 忽然と消えた人間)
  • ヒトとけもの  (現実の人間と動物の関係)

 上2つについては散々言い尽くされている事なので、今回は最後の「ヒトとけもの」に重点を置いて考えてみたい。 以下考察が続くが、『けものフレンズ』一期のネタバレがある程度含まれることが予想される。ご容赦願いたい。

 

 

■「けもの」の危険性 

 そもそも人間と動物は根本的に相容れない存在だと私は思う。人間は動物に危害を加え、領域を侵し、あるいは飼育・使役・研究・展示して来た。そして人間が原因で絶滅したり、あるいはその危機に瀕している者も少なくない。動物の側もまた人間に危害を加え、その領域を侵そうとする者がいる。

 

 作中ではそうした歴史が明示される事はないが、大抵の視聴者は、人間と動物との関係が、必ずしも良好でなかったことを知った上で作品を見ている。また「かばんちゃん」が「ヒト」である事は7話後半で初めて明示されるが、視聴者は最初から彼女が「ヒト」であることに薄々勘付いてもいる。

 

 1話冒頭の「かばんちゃん」の台詞「食べないでください!」には、動物が人間に危害を加えうる存在だという事が示されている。サーバルはあくまで「狩りごっこ」をしている為、害意は全く無いわけだが、「肉食獣に組み伏せられた人間の子供」という構図は捕食を連想させる。丸腰の「ヒト」は「けもの」に勝てない。それでも自然の中で個体として生きていかねばならない事が、物語の始めに示される。

 

 作中には絶滅動物のフレンズも登場する。その多くは目にハイライトがない事により、デザイン面で他の動物とは区別されている。そうした動物の中には、二期のリョコウバトの様に人間によって絶滅させられたものも存在する。人間と動物の歴史は必ずしも友好的なものではない。もしもフレンズの中に動物時代の記憶を持つものがいたなら、或いは人と動物が対立する歴史を知るものが現れたなら、ヒトである「かばんちゃん」は無事で居られるのだろうか。

 

 そうした緊張感は「かばんちゃん」がヒトである可能性をハシビロコウに指摘される6話ラスト~7話冒頭で最も高まる。この段階ではヒトに対してフレンズがどの様な感情を抱いているか評価が明確でない。もしかしたらヒトであることが露呈した結果、危害を加えられたり、排斥を受けるのではないか?との不安がよぎる。

(実際には危害が加えられる事はない。フレンズはヒトに対して好奇心を抱きこそすれ、害意を持つことはない)

 

  最終話12話において、フレンズ達は「野生解放」を行い、「群れ」として異物であるセルリアンを排除している。人間を異物と判断したなら、容赦なく排除するだけの力をフレンズ達は持っている。彼女達は「そうしない」だけなのだ。

 

 

 ■「ヒト」の危険性

 それでは「ヒト」は弱く無害な存在なのだろうか? 答えは否だ。

 

「かばんちゃん」は旅の間に様々なフレンズと出会い、そこで発生する問題を「ヒトの知恵」と「フレンズの特性」を用いて解決してゆく。 

  • 2話ではフレンズと共に川に橋を架ける
  • 3話ではフレンズに歌い方を教えたり、店の宣伝をしたりする
  • 5話ではフレンズが家を建てるのを手伝う
  • 6話ではフレンズを率いて縄張り争いを解決する
  • 7話では火を用いてフレンズに料理を作る

 

 フレンズとは動物がヒト化したものだが、元の動物の特性を色濃く受け継いでいる。先述の様に身体能力は人間を凌駕する反面、人間ならすんなり出来る事が、行えない/理解できない場合もある。「かばんちゃん」はそうしたフレンズの特性を見極め、的確に導くことで問題を解決する。上に挙げた中では特に2話、5話、6話で顕著だ。

 

 6話で「かばんちゃん」はヘラジカ側の軍師として陽動作戦を展開し、連戦連敗だったヘラジカを敵大将・ライオンとの一騎討ちまで導く。『けものフレンズ』一期のストーリーは人類史とリンクしている、という話があるが、ここでは「戦争」がテーマとなっている。「ヒトの知恵」は使い方次第ではフレンズを組織化し、効率的に使役する事が出来るのだ。

 

 7話で「かばんちゃん」はジャパリ図書館に到達する。そしてアフリカオオコノハズクの博士らに求められ、火を用いて料理を作る。博士らは「かばんちゃん」の作ったカレーに夢中になり、やがて料理文化は徐々にフレンズの暮らしの中に伝播してゆく事となる。

 

 火はギリシャ神話のプロメテウスの逸話に代表されるように、人類の知恵と技術の象徴だ。闇を照らし、暖を取り、触れたものの性質を変容させる。料理を作る事も出来れば、金属を加工して武器を作ることも出来る。火を使う「かばんちゃん」をフレンズ達は「何か怖い…」と遠巻きに見守るが、フレンズ達が感じていた畏怖の念は、「火」のみならず「未知の技術を使うヒト」にも向けられていたのではあるまいか。

 

 物語の最後に「かばんちゃん」は海を越えて旅立つこととなる。ここからは完全に私の妄想となるが、もし仮に彼女がそのまま島に残り続けたなら何が起こっただろう? 私は以下の理由により、本人が望むと望まざるとに関わらず「かばんちゃん」の権威化が進んだのではないかと考える。

  • 確かな戦術眼を持っており、対セルリアン戦の中心的存在となりうる
  • 知恵と技術によりフレンズの抱える問題を解決したり、新たな文化を産み出せる
  • 特に火を使う作業は「かばんちゃん」の専売特許(火が平気なヒグマは除く)

 

 島の抱える問題が集中して「かばんちゃん」のタスクが極大化した結果、「かばんちゃん」はフレンズを組織化し、指示を出す必要に迫られるのではないか。それは取りも直さず「ヒトによるフレンズの支配」の始まりに他ならない。

 

■まとめ

 長々と書いてきた様に、『けものフレンズ』一期の世界は不穏さに満ちていると私は考える。フレンズ達は互いの長所を肯定し、短所もまた個性として受容する。「ヒト」である「かばんちゃん」もまた様々なフレンズ達と接する中で、パークに受け入れられてゆく。

 

 だがその「優しい世界」は、登場人物の誰もが害意を抱かないからこそ成り立っている。「けもの」は「ヒト」を排斥するだけの力を持ち、「ヒト」は「けもの」を支配するだけの知恵を持っている。一歩間違えれば、そこには現実の歴史が辿ってきた人間と動物の対立が生まれうると私は考える。

 

 以前、Twitter上でこんな話をした。「人権は侵害されて初めて存在に気付くものだ」と。陽光に満ちた世界では、星々の光に気付くことは出来ない。不穏と謎が影を落とす世界だからこそ、フレンズのいる優しい風景が輝いて見えるのだと私は思う。