八戸のぶなが 朝まで三戦

三戦固定八戸のぶながが、日々の想いを綴っていくブログにしたい。

Speak Like the Old

( ,_´ゞ`)突如記事を書く。特段書くべきことがある訳ではない。

何故書くかと言えば、たまには記事を書いてやらないと数少ない読者どころか自分自身すらブログの存在を忘れてしまうからだ。記憶というのは蓄積されていても、それを検索する手掛かりが無ければ再生出来ない。今回も偶々他人の書いたブログを読むまでは、自分がブログを持っていた事すらすっかり忘れていたのだ。

思えば小学校以前の記憶は靄の彼方にある様なものだし、中高生時代もかなり漠然としたものしか残っていない。今はつなぎ止めている大学生活の記憶もやがて靄に包まれ彼方へ消え去ってしまうだろう。それ以降の記憶には余り楽しい思い出も無いが、それでも消えてしまうのは寂しいものだ。

せめて時の流れに抗う為に日記などを書けば良いのだろうが、私は三日坊主どころか散々悩んだ挙句始める前に投げ出してしまうような人間なのでどうしようもない。せめて物的証拠でも残そうと、映画の半券や飲んだビールのコースター等を保存し始めたが、これもいつまで続くものやら知れぬ。

 

そう言えばつい一昨日amazon内をぶらついていたら、『COWBOY BEBOP』のDVDボックスが安く売られているのを見つけて購入してしまった。

全話揃った上で特典映像まで付いて4,000円以下とは、非常にいい買い物をしたと我ながら思う。嬉しい誤算であったのは、このDVDは仏語版であり(勿論日本語版の音声も付いているが)フランス語の吹替や字幕を楽しめるからだ。

とは言っても私はフランス語の素養がある訳ではないので、演技のニュアンスや細かい訳語の差しかわからないのだが、それでも十分興味深く楽しめている。

 

フロイスの『日本史』もちびちびと読んでいる。基本食事時に少しずつ読み進めるだけなのでなかなか進まないが、こちらも興味深い本である。当時の貴人から貧民に至るまで、当時の人々の生活振りが描かれているのは当然興味深いし、純粋に外国人の日本旅行記として読んでも面白い。本能寺の変に際した洛中・安土城下の混乱ぶりなどとても面白い。

また外国人の宣教師という極めて偏った視点が描かれているのも良い。日本における神道の神や仏は彼らに取って悪魔であり、邪魔する異教徒はその手先の様に描かれている。改宗をした者には極めて寛容な反面、教えを捨てた者には非常に厳しい表現を用いるのも、読んでいて興味を惹かれる部分である。

今丁度読んでいた一節に織田信孝の最期が描かれているので、少し引用してみよう。「彼」というのが信孝の事である。

 先にデウスは彼にキリシタンの教えについて大いなる喜びと光と知識を授け給い、彼自身、キリシタンになる意向をたびたび表明し、自分が征服した諸国では我らの聖なる教えが大いに弘まるように協力しようと言っていながら、少しく栄えるとデウスに背を向け、心はまったく悪に染まり、デウスに扶助を求めるどころか、それを拒否し、魔術師の吐物を求め、偶像を拝みに走ったのである。だがデウスは突如として彼との絆を断ち給い、間もなく彼は無残な死を遂げ、その記憶は人々の許から消滅してしまった。(完訳フロイス日本史4 豊臣秀吉編1 P18~19より)

 少し長くなったが、彼の死についてかなり厳しい表現で糾弾している事がお分かり頂けると思う。前巻においても本能寺の変前の信孝の描写があるが、そこでの彼は華麗な軍団を率いる前途有望な若武者として描かれているのに対して、凄まじい掌返しである。(先に掌を返したのは信孝だという意見もあるが…)

たまに素に戻った宣教師の言葉が書かれているのも良い、普段は仏像への冒涜行為を賞賛している彼等が(仏像に小便をかけた人物を賞賛したりしている)、三十三間堂を訪れて展示された仏像に痛く感じ入り賞賛している様子などは少し微笑ましくも思える。

 

余りにも纏まりのない文章を書きすぎると辟易される(既にされている)だろうから今日はこの辺にしておく。うむ( ,_´ゞ`)